[知の世界の構造 002]
いわゆる「知る」の定義について、皆さまはどうお考えになるでしょうか。
学問と向き合う上で付きまとい続ける、この「知る」の捉え方も、東洋と西洋ではまるで異なります。
西洋における「知る」は、「知識として知っている」「言葉で語れる」「頭で理解している」といった思考による理解。
例えば、本を読んだり、話を聞けば「知った」ことになります。
一方で、東洋では思考による理解を「知る」とは言いません。
それらを体感あるいは体得するという経験を伴って、はじめて「知る」という状態になります。
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このような「知る」の捉え方、その違いについて、東西の哲学を学んでいた人にとっては、臨場感があることでしょう。
東洋哲学を学んだ人であれば当然のごとく、つねに思考と実践は一体と考えています。
西洋のプラグマティズム哲学で語られるような「思考と実践のサイクル」ではなく、完全に同一であると。
そして、このことは別に東洋哲学を知らずとも、大人にとっては当たり前だろうと思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、実際のところ、実社会においてよく目にする光景はどのようなものでしょうか。
最たる例として、「学びの場」では顕著に見て取れます。
西洋でいうところの「知る」にフォーカスした学びにおいては、程度は異なれど、何かしらかの気づきを得て、世界の見え方が変わったという人は多くいます。
けれども、それだけに終始し、実践に至らないケースは非常に多いものです。
口では「変わりたい」と言っていても、そもそも行動する気などなく、ただ「知りたい」という人が多いということ。
そして、西洋の知ではそうした人でも「知っている」ことになる、ということ。
また、そうした人ほど「受講後、自分がどのように成長するのか」といった問いを立てるのも特徴のひとつ。
当然ながら、知っているだけで行動が伴わない、学び大好き人間から脱却せずして、体得知すなわち成長には至らず。
本来であれば、このような問いに対して、知の提供側は安易に「変わる」とは約束できないものです。
むしろ、そうした姿勢に誠実さを感じ取る人ほど、東洋的体得知の価値を理解していると言っていいでしょう。
そう、何を学ぶかよりも、学び方が大事という話。
思考のみで終わらない哲学。
それが東洋哲学の世界観です。
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▼COLUMN:知の世界の構造
[002] 思考で終わらない哲学(このページ)
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